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益田氏城館跡史跡

益田氏城館跡は、島根県西端に位置し、益田川沿いの三宅御土居跡と七尾城跡からなる。益田市は石見国を代表する武士団益田氏の本拠地で、益益田市益田地区田氏関連の文化財が数多く残されている。益田市教育委員会は、平成2年度から13年度に三宅御土居跡、七尾城跡の発掘調査を実施した。  益田氏は本姓藤原氏で、平安末期に石見国司として下向し、在庁官人として国府周辺(浜田市)に土着した。源平の内乱期に源氏方として活躍し、建久年間(1190)に益田荘に本拠を移して益田氏を称し、各地に支族を輩出して石見国最大の勢力を誇った。14世紀中頃からは周防、長門、石見守護の大内氏に従い、15世紀後半、応仁・文明の乱ののちに石見国人一揆の盟主となった。天文24年(1555)に陶晴賢が厳島の戦いで敗死すると、姻戚同盟関係にあったために窮地に立たされたが、吉川元春の仲介によって毛利氏に服属し、以後毛利氏に従って各地を転戦した。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いののち、防長2か国に減封された毛利輝元に従い長門国須佐に移った。益田家文書等から、三宅御土居は応安年間(1368)に築造され、天正11年(1583)に改修されたこと、須佐移住後の跡地に益田氏旧臣が寺院を創建したことが知られている。七尾城は延元元年(1336)の文書に初見し、天文20年(1551)に毛利氏との緊張関係のもとで大改修し、益田氏は天正11年に七尾城から下城して三宅御土居に移ったとされる。  三宅御土居跡は、益田川右岸の標高約9mの微高地上に占地し、標高差は約2mを測る。堀内側の敷地は東西約190m、南北約110mで、東側が北に突出した長靴形を呈し、東西に高さ約5mの土塁がある。東西の堀跡は幅10m、深さ2mから3mの箱堀である。北堀跡は最大幅16m、深さ1.5mで、さらに北側に堀と平行する幅約8mの川跡が検出された。南側では幅20mから25mの川跡が検出され、益田川の支流を堀として利用していた。12世紀から16世紀の陶磁器が出土し、三宅御土居の前身の施設が存在したことがうかがわれる。繰り返し建物が建て替えられており、13世紀の木組井戸跡、16世紀の礎石建物跡、石積井戸跡、鍛冶場跡等が検出されている。  七尾城跡は、三宅御土居跡の南東約900m、益田川左岸の標高約118mの丘陵上に占地し、標高差約100mを測る。東西約400m、南北約600mの範囲に大小40余りの平場が展開し、6つの地区で構成される。大手道は北側に開く馬蹄形の東西尾根の間の谷道を登る。北東端と本丸跡の南東側には畝状空堀群を配し、西側の山裾には水堀跡が巡る。本丸跡では南端で建物礎石と雨落溝跡が、北端で瓦葺き礎石建物の門跡が、二の段跡北端では礎石建物跡、砂利化粧区画を伴う小庭園跡が検出された。13世紀から16世紀の陶磁器が出土し、中国陶磁器は16世紀の第3四半期が主体で、天正11年の七尾城下城と年代的に符合する。本丸跡と二の段跡は、ハレの儀式で使用したかわらけが90%程度を占め、城主の生活と儀礼の場であったと推定される。  益田氏城館跡は、豊富な中世文書を伝えた、石見国を代表する中世武士団益田氏の本拠地の城館跡で、遺構の遺存状態も極めて良好であり、中国地方の歴史を考える上で貴重である。よって三宅御土居跡と七尾城跡を益田氏城館跡として史跡指定し、保存を図ろうとするものである。